この記事でわかること:
方言・標準語・英語との付き合い方を、自分自身の体験をもとに振り返ったエッセイです。 「借り物の言葉」だったあの頃から、「自分の言葉」を探してきた過程を書いてみました。
🌸目次
- 🌱 僕にとって最初の「外国語」は、方言だった
- 🎭 板挟みの日々──家庭と学校、標準語と方言
- 🌀 「自分の言葉」がなかったあの頃
- 🌍 英語との出会い──気軽に借りられる言葉
- ✏️ 言葉にまつわるあれこれ──作文、答辞、そしてブラインドタッチ
- 🕊️ 借り物の気楽さ、借り物の自由
- 🎤 真似して覚える言葉たち
- 🌱 自分の言葉になるまでの時間
- 🌈 そして、外国語は今も「借り物」だからこそ
🌱 僕にとって最初の「外国語」は、方言だった
外国語ってさ、なにを指して言うのか、ほんと人によるよね。
英語?中国語?フランス語? いやいや、僕にとっての最初の外国語って、実は「方言」だったんだよね。びっくりでしょ。
うちの両親は、いわゆる「標準語」で話すタイプだったんだけど、育った地域はまあまあ訛りが強くてさ。いわゆる田舎ってやつ。 方言がその土地の空気みたいに染みついてる場所だった。
幼稚園の頃は、正直なにも困らなかった。みんななんとなく似たような感じで話してるし、先生の言うことも「ふーん」くらいの感覚で聞いてた。 でもさ、小学校に上がったあたりから、なんか「あれ?」ってなるわけ。 先生が言ってること、ちょっとずつわかんないの。
なんか言葉のイントネーションとか単語とか、ところどころ「僕にはわからない言語」になってきて。
🎭 板挟みの日々──家庭と学校、標準語と方言
日本語って、ちょっとイントネーションが違うだけで意味変わっちゃうじゃない? 「箸」と「橋」とかさ。で、方言と標準語の間のそういう細かい違いが、僕の中では「別の言語」に感じられてた。
しかもね、僕が使ってる言葉(=家で話す標準語)は、クラスの中ではちょっと「気取ってる」ように聞こえたらしいんだよ。 子どもって正直だから、「なにその言い方~」とか「テレビの人みたい~」とか言ってくるわけ。 それがまた、微妙にグサッとくる。 一方で、両親は「方言を使うな」ってスタンスだったのよ。
まあ、「正しい日本語を」みたいな教育熱心な家庭だったから、わからなくもないけど、でもさ、学校では使われてるのが「ダメな言葉」って言われるし、 家では「それ使うな」って言われるし……なかなか不自由なものだよ、言葉に制限がかかるのって。
🌀 「自分の言葉」がなかったあの頃
そんなわけで、僕の中では「自分の言葉」っていうのが、全然存在しなかったんだよね。 家では家の言葉、学校では学校の言葉。 それをうまく切り替えながら、毎日をなんとか乗り切ってた。 子どものころって、「みんなと同じ」が何より大事じゃん?
だから、ちょっとでもズレると、それだけで笑われたり、からかわれたりする。 自分を守るために、「この場ではこの言葉」って切り替える術を自然と身につけてたけど、 その反面、「本当の自分の言葉」ってのが全然育たなかった。 作文もさっぱりだったし。読書も嫌いだったし。
「お前は国語の成績はいいけど、作文は苦手だな」って、先生に何度も言われたよ。 いやもう、そりゃそうでしょ、どの言葉も自分のじゃないんだもん。
🌍 英語との出会い──気軽に借りられる言葉
そんな中で、出会ったのが英語だった。 英語って、完全に「借り物」だから、気楽なの。 誰の言葉でもないし、自分の言葉にする必要もないし、「これ、借りてます!」って堂々と言える。
しかも、方言でもないし、男言葉とか女言葉とか、そういう「枠」も感じない。 僕にとって、英語ははじめて「安心して使える言葉」だったのかもしれない。
まわりの誰かの真似をしてるんじゃなくて、先生から習った通りに、安心して喋れる言葉。 これ、けっこう貴重な体験だったなあ。
✏️ 言葉にまつわるあれこれ──作文、答辞、そしてブラインドタッチ
で、ちょっと話飛ぶけど、高校のときに推薦で大学が決まってさ。 3年生の後半、やることなくてヒマだったら、生徒会から「卒業式の答辞書いてくれ」って頼まれたの。 でもこれが、地獄の始まりだった(笑)
国語の先生に何度も添削されて、書いても書いてもOKが出ないの。 いやいや、そんなに言うなら先生書いてよって内心では思うけど、素直な高校生だった僕は毎日せっせと修正して提出してた。 おかげで、ブラインドタッチはめっちゃ上達したよ。唯一の収穫(笑)
でもね、自分の言葉を「これは違う」って何度も直されるのって、やっぱりしんどいんだよ。 そもそも、その言い回しにもニュアンスがあるし、その場の空気とか、自分の体験から出てきた表現だったりするじゃん。
それを、「こっちの方が正しい」って言われると、「いや、そうかもしれないけどさ……」ってなる。
🕊️ 借り物の気楽さ、借り物の自由
だからこそ、外国語って楽なんだよね。 英語の添削なんて、「ここは過去形の方が自然」とか、「この単語の使い方ちょっと変」とか、ある意味で超割り切ってる。
感情じゃなくて、技術の話なんだよ。だから、修正されてもあんまり傷つかない。 むしろ、「なるほど、メモメモ」って感じで、ありがたく吸収できる。
日本語だと、ちょっと直されるだけでも「それは僕じゃない」って気持ちになっちゃうけど、 外国語だと「それは僕じゃないから」こそ、直されるのも全然平気。 便利だよね、借り物って。
🎤 真似して覚える言葉たち
そうそう、僕は高校で演劇部だったんだけど、役にあわせて話し方を変えるっていうのも、すごく面白かった。 言葉って、真似して覚えるもんなんだよね。
俳優さんのしゃべり方を真似したり、ドラマのセリフを何回も口に出してみたり。 口調を変えると、ちょっと自分が変わったような気がして、それが楽しかった。
ちなみに、うちの家庭ではお笑い番組をあまり見ない方針だったから、 芸人さんのしゃべり方とかも実はちょっと「タブー」っぽかった。 でも大人になってから「あれ、これ教養じゃない?」って思って、 わざわざM1グランプリのDVDを借りて、明石家さんまのトークを研究してたこともある。 お笑い番組には、社会性にまつわるいろんなものが詰まってる。
🌱 自分の言葉になるまでの時間
そうやって、真似して、借りて、また真似して、 少しずつ「自分の言葉」ってものが形になってきたんだと思う。 でも、そこに至るまでにはほんとに時間がかかった。 僕が自分の日本語に少し自信を持てるようになったのは、 たぶん30歳を過ぎてからじゃないかな。
いまだって、「この言い方でいいのかな」って迷うことあるし、 特に書くときは今でも慎重になる。 でもまあ、昔みたいに「どっちにしても僕のじゃない」みたいな感覚からは脱したと思う。
🌈 そして、外国語は今も「借り物」だからこそ
一方で、外国語は今でも借り物のまま。 でもそれが逆に心地いい。 「自分のじゃないからこそ、気楽に使える」っていうのは、外国語学習の醍醐味だと思う。 なんなら、「ずっと借り物でいてほしい」くらい、心のどこかで思ってる。 他人の歌をカバーしてるような感覚。 カバー曲って、自由だし、責任も軽いし、楽しめるし、 なにより「自分じゃない」から遊べるんだよね。 外国語も、たぶんその延長線上にある。 遊びながら、少しずつ慣れていくうちに、気づけば自分の一部になってたりして。 それが言葉の、面白いところなんだと思う。
というわけで、帰国子女でもなんでもないのに、日本語に悩み、方言に戸惑い、外国語に救われてきた、 そんなおじさんのひとりごとでした。