目次
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はじめに:英語を勉強しようと思ったわけ
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邦訳がない世界の扉を開けたくて
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憧れの先生と、うっすらある英語の自負
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英検1級を取ったら、専門書はどうなった?
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脱線という名の多言語学習
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英語ができるってどういうこと?
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相対的な「自信」が後押ししてくれた
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多読は「わかんなくても読み進める技術」
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なんとなくの雰囲気だけで読む訓練
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まとめ:回り道でもいいじゃないか
はじめに:英語を勉強しようと思ったわけ
社会人になってから、自分の専門ってなにかな、って迷う時期があって。で、さまよってたどりついたのが、なかなかマイナーな専門分野で。もうね、邦訳されてる本が、びっくりするほど少なかったわけ。あることはあるんだけど、少ないうえに難解。しかもその少数精鋭の邦訳書、読むのめちゃくちゃ時間かかった。だから、それを全部消費するまでは、まあ、平和に邦訳を読んで楽しんでたんだけど。
でもさ、読み終わった頃には「次どうすんの?」ってなって。答えはひとつ。
「原書読むしかないじゃん・・・」ってやつ。
邦訳がない世界の扉を開けたくて
でも、原書ってもちろん英語なんだよ。で、そのときの僕は英語、まあ学校では得意だったけど、会話なんて絶対無理だし、ハリー・ポッターだって英語で読んだことない。そんな状態で専門書読むとか無理じゃん?ってことで、そこから「よし、英語やろう」ってスイッチが入った。
このとき、すごく自然だったんだよ。勉強っていうより、「読むためにやる」ってだけだったから。英語そのものが目的じゃなかったの。英語は手段。道具。…だったはずなんだけど、これがまあ、道具にハマっていっちゃったわけ。手段の目的化。ふつうにダメなヤツ。
憧れの先生と、うっすらある英語の自負
もうひとつ、英語やろうと思った理由があってさ。それは、僕の専門を教えてくれた先生が、イギリスの大学を出てたって話を聞いたこと。英語がめっちゃ上手いらしくて(実際にきいたことはないけど)、単純な僕は「うわ〜かっけえ」ってなったんだよね。
そんで、ぼくもまあ、中学で英会話部に入ったはいいけど、部員が少なくて廃部(笑)。スピーチコンテストも惨敗。英検準2級にも落ちて、それっきりだったんだけど、でも他の科目よりは好きだったわけで(数学とか化学よりは)、そういう意味で、「いけるじゃろ」っていう軽いノリで。
英検1級を取ったら、専門書はどうなった?
で、がんばって英語やって、英検1級に受かったのが4年前。ギリギリ合格(笑)。でもね、そのときには、専門書のこと、もう忘れてたの(笑)。いやほんとに。
だって、英語の勉強に夢中になっちゃってて、本来の目的が「手段に乗っ取られる」というよくあるパターン。そんで、「よし合格した!」ってなった瞬間、「さて、何しよう…」って。まさかの原点回帰せず。読書の趣味が広がって、邦訳で読める面白い本が増えてきて、「まあ、原書読まんでもいいか」ってなっちゃったわけ。
脱線という名の多言語学習
そのあとは、英語で得た学習ノウハウをフル活用して、フランス語と中国語に手を出した。もう、完全に「語学自体」が趣味になって。
でもね、多読のやり方は変わってなかったの。どっちも、多読多読また多読。わかんないまま、読み進めるやつ。フランス語も中国語も、はじめは「さっぱりわからん」だったけど、2年、3年と続けてたら、「まあまあ雰囲気はつかめる」くらいにはなった。
英語ができるってどういうこと?
ここからが不思議な話。
はじめは
日本語→わかる 英語→まあわかるけど・・・
だったのが、
日本語→わかる、英語→ちょいわかるぜ! フランス語→まあわかるけど・・・
(中国語→わからんけどたのしー!)
みたいな感じで、相対的に「英語ってわかるじゃん!」という謎の自信が生まれたんだよね(笑)。
実際の英語力は、たぶん4年前とそんなに変わってない。でも、他の言語と比較することで、「あれ?自分、英語いけてるんじゃね?」って気持ちになれた。これって、めちゃくちゃ大事な感覚かも。
相対的な「自信」が後押ししてくれた
で、ついに!ずーっと積ん読になってた英語の専門書を読み始めた。なんかね、「やっと今か」って感じ。4年越し。回り道しまくって、ついに戻ってきた、みたいな。
でもね、今の僕は、英語の細かいニュアンスがわからなくても、「まあいいや」と思えるようになってた。なんなら、「フランス語よりマシ」って感じで読み進めてる。これが、なかなかいいのよ。
多読は「わかんなくても読み進める技術」
本って、日本語でも、1文がわかんなくても読み進めてるうちに「あーなるほど、あの一文ってそういうことか」ってわかる瞬間、あるよね?著者があえて隠してるやつとか、あるじゃん?
でもそれ、英語を勉強してるときってなかなか味わえないんだよね。全部理解できなきゃって思っちゃうから。そういうプレッシャーが、自信をなくさせたりする。でも、「どうせわかんないし、いいや」って思えるようになると、一気に楽になる。
なんとなくの雰囲気だけで読む訓練
これはもう、技術というか、性格というか。「なんとなくの雰囲気」で読み進めるっていう技術。これ、学校の成績には反映されないかもしれないけど、多読には欠かせないスキルだと思うんだよ。実際、ぼくの多読学習は、最後に試験用に知識を過去問でまとめないと、あんまり使えないっていう欠点(かわいらしさ と読む)があるんだけど、こういう技術は実は大人の趣味英語としては、とても楽しくて。
そういう読み方してると、自然と「英語で考える」みたいな状態になってくる。「日本語にいちいち訳さないって、こういうことなんだろな」って。
まとめ:回り道でもいいじゃないか
ということで、「専門書を読むために英語を始めたはずなのに、道草しすぎて4年経ってやっと読み始めた」っていう話でした。
でもさ、こういうのって、案外悪くないよね。無理してやるより、流れに身をまかせて、自分のタイミングが来るまで待つっていうのも、ひとつの方法だと思う。
何事も、力でねじ伏せようとしないこと。自分の自然な流れに乗ってれば、ちゃんと目的地には着くもんなんだなって。そんなふうに、都合よく思ってる今日このごろでした。