要約(summary)
語学学習において「完璧」を求めることは多いけれど、実際には誰もが「完璧じゃない語学」と向き合っているもの。この記事では、筆者の体験や子どもの言い間違いエピソード、新しいノートのたとえ話などを通して、「間違いを許容することの大切さ」や「学びの継続に必要な余白」について話すよ。
目次(Table of Contents)
本文
完璧な語学との付き合い方、あるの?
今日は「完璧じゃない語学」との付き合い方について書こうと思う。
というか、そもそも「完璧な語学との付き合い方」なんて、あるんだろうか。少なくとも、ぼくにはまだ見つかっていないし、ほとんどの人も同じじゃないかな。だから、語学との付き合い方って、だいたい「完璧じゃない」ものなんだよね。
でも「完璧じゃない」って言葉がつくだけで、なんだかホッとする。
それはきっと、語学を学ぶときに、いつでも赤ペンを持った大人の姿が頭にちらつくからだと思う。「そこ、間違ってるよ」「その単語、違う意味だよ」「助詞、変だよ」って。でも、それが常に正しい態度とは限らない。
「間違えてもいい」から始める語学
うちの4歳の娘なんか、「貯金」と「募金」を堂々と言い間違える。本人はまったく気にしてないし、むしろ自信たっぷりで。その姿が、ぼくはすごく好きなんだ。
言葉って、そもそも自分の意見や気持ちを「完璧に伝えるためのツール」だと考えると、窮屈になる。実際のコミュニケーションでは、表情だったり、声のトーンだったり、文脈だったり、相手の性格や自分の雰囲気だったり、言葉以外の要素が大事だったりする。
ノートのたとえ話:中途半端からでいい
語学は、その「構成要素の一つ」にすぎない。
だから、多少の間違いなんて、他の要素でいくらでも補えるんだよね。なのに、助詞だの語順だの、やれ前置詞だのって、細かいところばかり気にしてしまう。もちろん、それをパズルみたいに面白がって遊べる時期もあるし、完璧に近いアウトプットができたときの爽快感もある。それはそれで楽しい。でも、何より大事なのは、「余裕」があること。
余裕がない状態では、新しいことなんかできない。
たとえばさ、新しいノートを買って「今日から家計簿つけるぞ!」とか「日記はじめるぞ!」って思ったこと、あるでしょ?で、三日坊主で終わる。ありがちだよね。でも、そのあとが大事なんだよ。
「じゃあ今度はイラストの練習でもしようかな」ってなったときに、新しいノートを買わないこと。その前のノートの続きのページに描くんだよ。最初の方に家計簿とか日記がちょっと書かれてても、気にしないで、そのまま続ける。
語学は構成要素のひとつ
で、イラストにもそのうち飽きる。そしたら今度はスクラップブックにする。好きな雑誌の切り抜きとかを貼っていって、そこに気になる外国語が載ってたら、辞書を引いてみる。また外国語学習が始まる。
「完璧じゃない」って、そういうことなんだと思う。
まあ、実際ぼくはノートをとらない派だから、これは完全にたとえ話なんだけど(笑)。でも、そうやって、ゆるやかに続いていくことって、けっこうあるんだよね。
不完璧な自分とどう付き合う?
たとえば、ぼくが無意識に話している日本語にも、口語的な表現やスラングが混じってることがある。でも、それって別に「ネイティブぶってる」わけじゃなくて、言葉ってそういうものなんだよ。
語彙や文法といった「基本的なルール」があって、それをコツコツ覚えていくのが語学の面白さ。でもそれがすべてじゃないし、勉強って、ゲームみたいに音楽が鳴るわけでも、感動的なストーリーがあるわけでもないから、途中で飽きるのも当然なんだよね。
試験・ネイティブ・間違いへの視点
でも、それでもやっぱり続けたくなるのは、外国語を学ぶことで得られるリターンがあるから。人によってそのリターンは違うけど、それを求めて努力するのがまた楽しい。
たまに、致命的な言い間違いをして相手を怒らせることもあるかもしれない。でも、そういうときはちゃんと謝ればいいんだよ。「ごめんね、そういう意味じゃないんだ。単語の意味を間違えちゃって」って。
それでも相手が怒ったままだったら、それはもう、相手の性格が悪い(笑)。ぼくが外国語のネイティブじゃないことなんて、一目瞭然なんだから。
ネイティブに見えるくらい上手になったとしても、やっぱりネイティブじゃない。それはむしろ「強み」だと思う。
語学がくれるのは優しさと柔軟さ
試験の話でいえば、TOEICで満点を目指す人たちがいるよね。かっこいいし、憧れる。ぼくはTOEICを受けたこともないけど、満点ってやっぱりすごい。でも、たとえ満点をとったとしても、もっと難しい試験だったらまた間違える。
だったら、あえて「不完璧」でいるっていう選択も、アリなんじゃないかな。もっと深い語学の世界に足を踏み入れるってことだからね。
外国語学習を長く続けてきて、よかったなと思うのは、不完璧だったり、間違ったりすることに慣れてくること。
それから、いろんな覚え方を試してきた記憶があって、「ああ、どんな方法でもアリなんだな」と思えるようになること。
ぼくは、いわゆる異文化交流みたいなものは、あまりしてこなかった。でも、異文化交流を目的とするなら、翻訳された本を読めばいい。
外国語という「ちょっと難しいこと」を、長く、だらだらと続けていく中で得られるのは、異文化理解以上に「優しさ」や「柔軟さ」なんじゃないかなと思う。
どうせ学ぶなら、そういうものを身につけたい。
他人の言葉の間違いを指摘するよりも、自分の中の「幅」を広げていきたい。そんなふうに思って、今日もぼくは、完璧じゃない語学と、ちょうどいい距離感で付き合っていこうと思う。